オレンジ風(1)

「サヨナラの始まりはいつもオレンジの香りがする」

灰色に染めた歩道橋の上で明理はそう思った。アスファルトの凸凹に雨水がたまり、無気力の瞳のように周りの光を吸い込んだまま黙り込む。3月の風は未だに肌寒く、街路樹の裸のままの枝を躍らせてから、明理の右耳をくすぐりながらも通り抜け、灰色の国道を辿りながら遠方の名の知らない町へと消えていった。

明理は塗装が所々剝がれている歩道橋の金属手すりにもたれかかり、風の行く末を追うかのように地平線の方向へ目線を向けている。うなじを隠している長い黒色の髪が靡き、道端に踊っている雑草のように見える。明理が身に着けている水色のワンピースが、皮肉にも水のせいで灰色に染まった空と引き合いに輝いているように見える。

歩道橋の下にはいつもと変わらない忙しい風景が繰り広げられている。いや、むしろ雨による渋滞のせいで交通量が多く感じられる。路面が自動車の黒い車体に一面を占められて、その列が目の見える限り続いている。まるで黒い血液のように自動車の行列は国道を走る。しかし風の音はしない。それほどの速さで交通は動いてない。雨のせいで渋滞気味なのだ。

その代わり交通音が鳴り響く。死にかけたエンジンの鳴ったり止まったりする呼吸音、タイヤが水だまりを通る時の噴射音、時々車内から流れてくるロックンロール。雨のせいで全てが乱れていていつもの規則性を失っている。

明理に目をやる人間は誰一人いない。何せ朝の8時30分、いわゆる通勤ラッシュの時間帯なのだ。雨でタイヤが滑りやすくなっているせいで人々は一層路面の状況に注意を払うようになり、灰色の空を背景に佇む明理の姿を気にするほうが異常とでもいえよう。

冷たい風が明理の額をくすぐる。それで母親の俯く面影が明理の脳裏を掠る。まだ30代の若かった母親の顔だ。「早く目を閉じなさい」と母親が言う。明理は名残惜しそうに眼を閉じ、自分の瞼という名の暗闇を凝視するようになる。そして母親の冷たい指はゆっくりと優しく明理の額を擦る。

明理は昔から目が悪かった。医者さんに診てもらったことがないので、多分本を読みすぎたせいだろうと明理自身が勝手に思っている。子供の時の明理はとにかく本が好きだった。理由はたぶん友達がいないことだと明理は思っているが、どれが起因でどれが結果なのか明理自身もわからない。本はとにかく都合のいい友人のようなものだった。好きな時だけこっちから話しかけることができるのに加え、邪魔になることはない。

明理は同年代の友人のかわりに、本を選んだ。その代償といえばなんだが、目が悪くなった。小学校6年生から眼鏡をかけるようになり、大学に入ってコンタクトに変えるまで、黒いフレームの眼鏡はずっと明理の鼻の上を鎮座していた。そのせいでいろいろと同級生に揶揄われたこともあったが、それを気にするような明理ではなかった。

眼鏡だけではない。目が悪いのは、目が疲れやすいことをも意味する。それで、経脈医学にはまっていた母親がよく、明理の頭を膝に乗せ、そのゴリゴリとした太い指で明理の額の皮膚をこすり、効きそうなツボを探してマッサージをしていた。明理の肩までの黒い髪が母親の膝にかかり、まるで膝掛のようだった。

明理の母親は自動車工場の女工で、いつも汚れた深い青色の作業服を着ている。朝7時に家を出て、夜9時に帰る。小学生の明理は午後5時に学校から自宅に帰り、小説を読みながら朝母親が作った弁当を温めて食べ、宿題をして寝る。週末だけ母親が夕食を作ってくれて、同じく青色の作業服を着こむ父親と一緒に静かに食べる。そして父と母がテレビを見ている間明理は目が痛くなるまで本を読むのだった。

雨のにおいが充満する風が再び通り過ぎ、明理の墨のように光る黒髪をいじりながらまた靡かせた。明里が手すりを強く握りしめながら、俯き、歩道橋の真下の国道を注目する。水だまりは、曇天空を反射して灰色一面で、なにも映ってないように見える。明理の存在に気付く人間は、いまだに誰一人もいない。

明理は気づかずに灰色の水だまりを見つめるようになった。まるで瞳のグレイと水だまりの色が共鳴し、溶け合ったかのように。その水だまりはちょうど歩道橋の真下で、明理の真下なのだ。渋滞で自動車の流れが堰き止められ、時々クラクションの甲高い音が鼓膜を痛める。その濁ったように見える水の中に、鮮やかなオレンジの皮が静かに漂っている。先通り過ぎたマナーの悪いドライバーが捨てたものだろう。オレンジジュースが朝食のトレンドになっているせいかもしれない。

そのような距離でわかるはずもないのに、明理はオレンジの酸っぱい香りを微かに感じる。今日の風は少し意地が悪いと、明理は思う。なぜならそれは、レイとの再会の時に彼女が身にまとった香水の匂いと似ているからなのだ。しかし考えれば、実体のないレイが香水を身につけれるはずもない。でもそれぐらいの矛盾は許されるだろう。そもそもレイ自身も曖昧そのものなのだ。本当に「レイ」という名前だったのかすらわからない。しかし物事には名前がないと始まらないので、彼女のことを明理はレイとずっと呼んでいた。

しかしそんなことはどうでもいいのだ。記憶に怯えるほど弱い明理ではない。灰色の水だまりを見つめたまま明理は右足で手すりを跨いだ。ゴキブリのような自動車にこもっている人々が彼女に気づくことはやはりなかった。ただエンジンのついたり消えたりする音が辺りに響く。風が愛撫しているように彼女の右耳をいじりながら通り過ぎた。オレンジの匂いがだんだん濃くなる。

そして気づいたら明里はレイの顔を見つめていた。