山口市紀行

 光陰矢の如しいというけれどまさにその通りである。

 3月に日本縦断を出走し完遂してはや2か月、ブログを書こうと常々思ってはいるものの、依然として筆を動かしていない今頃である。すでに6月に差し掛かり、風は徐々に夏の熱波を思い出させる時期になった。6時過ぎても日が沈まぬ。

 4月に別府で1週間の湯治をして大阪に戻ったものの、未だに旅情に陶酔す自分がいる。日常に戻るのが怖いからかもしれぬ。

 さて、5月24日の午後である。日が長く空気が煽られ熱い風となって窓ガラスにてエアコンの冷気とぶつかりながら、音のしない悲鳴をあげている。部屋にはものが乱雑に倒れており、さも空き巣にでも入られたかのように。焦燥は空気と同じ厚さを帯びる。もう1週間ほど外に出てないのである。

 引きこもりと言われたら心外である。インドア派では決してない自分を何度か確かめながら僕ははっきりという。けれど音楽はインドアでやることが多い。特にこんな空気が熱い日においては。

 1週間何していたかというと、ギターとマイクラ、その2つしかしていない。マイクラはもう飽きたけど、音楽は絶えず人を引き付ける魔力を持っているように、1日6時間以上練習とアレンジに費やしても全くと言っていいほど飽きが来ない。けど音楽は金にならん。早く何かをせねばと思いながら、やはり旅に出ねばならんと思った。旅で何か解決策を得ることができるかもしれんという淡い期待をわずかに抱きながら、さも夜逃げするようにその日の午後に山口へ発した。新幹線に乗って輪行状態のロードバイクを傍に。

 なぜ山口なのか。それは単なる思いつきである。

 日本縦断していた2か月ほど前、山口県を通っていた。国道2号線で小野田、宇部、岩国、防府、周南の順で、1日で駆け抜けました。しかしあまりにも急いでたのである。

 その日の午前は門司レトロを見学して、関門突破して本州に渡ったのはもうすでに午後である。それに加え国道2号線が思った以上の大通りであり、車が信じられないほど早いスピードでロードバイクの傍らから抜いて来るので、仕方がなく迂回路を使うも道に迷い、防府あたりにつくのがもうすでに真夜中でなんも見えないのであった。

 そのため今回は日本縦断で見れなかった山口を体験しようと思って始まった旅ともいえるかもしれんが、それもそれでこじつけかもしれぬ。

 今回は新幹線で新大阪から新山口まで移動したのである。午後である。気温が思った以上に暑苦しく、ホームで汗にびしょ濡れの自分がいる。嫌がりながら輪行状態の自転車と乗車してやっと一息がつけたのである。

 新山口から宿泊予定地の湯田温泉まではおよそ10キロほどである。県立博物館におじゃましようと計画を立ててはいたものの閉館時間に間に合わず、なおかつ次の日も閉館日というわけで訪問を断念したのである。

 ぬめりのある熱さを横切りながら椹野川の土手に沿って北上し、サングラスに突き刺さる日光にじっと耐えながら10キロ。やっとのこと湯田温泉のスーパーホテルについたのである。時刻は午後4時半ほどである。

 荷物をホテルルームに預け、まずは毛利家の墓所のある瑠璃光寺に向かうが、途中でサビエル記念堂の看板を見たので気になり立ち寄ることにした。

 サビエル記念堂は営業時間外で空いていなかった。白い西洋風の建物で、どこかさびれている雰囲気に包まれる。地面より一段高い白い土台に年配者の顔のような黄味のかかった白亜の屋根が銀色の十字架を囲んでいて、その後ろにそびえる2柱の塔にスピーカーのワイヤーが張り巡らされ、20世紀の未来映画に出てくるサイバーパンク感をあたりに漂わせる。左手に駐車場と禁門の変で討ち死にになった来島又兵衛をたたえる石碑の向かい側に、まるで観音菩薩のようにたたずむマリア様の彫像が石室に身を隠しながら、記念堂を何重も囲む紅の花と木々を慈愛の視線で眺めている。

 記念堂の反対側に亀山山頂への道があり、それに上ると山頂に毛利敬親公の銅像があり、周りに支藩の藩主の銅像もあったが、戦時中に軍需として徴収されたという。

 亀山を下って一の坂川を沿って進みながら、まるで京都銀閣寺付近の哲学の道に酷似する風景に驚く。特に川にかけられる橋が京都にいた頃の記憶を呼び戻して来るのである。

 坂を登り切れば瑠璃光寺の手前につく。6時過ぎでいたので店は開いておらず、舌鼓と色褪せた看板に書かれた色味のない大字を眺めながら、瑠璃光寺に入っていく。

 カエルの鳴き声が聞こえる。そのあたりはモリアオガエルの生息地であるが、どの種類のカエルかを確かめるために音の主を探したが見つからず断念。しばらく進むと五重塔の近くにたどり着く。塔は古びた木でできていて、室町時代の大内氏によって作られたという。何百年も過ぎているのに朽ちて倒れないか心配ではあるが、日が沈むにつれ点灯されすぐ近くの湖に投影し、宛ら鏡湖池のごとく綺麗に塔の蒼然たる姿が映し出される。大内氏が京都の風雅に靡きそれに模して西の京となした所以かと思いにふければあたり一面に暗闇が襲いかかる。寺を見学して鶯張りの石畳を渡って毛利家墓を訪ねる。かすかな黄昏の余光を頼りに墓主人の名前を読みながら、当の関ケ原の恥をすすぎ天下の徳川幕府を倒したそうせい公の最後も一丈もない高さの石の下青藪の中に骨をうずめることを想像し、諸行無常を思い知るのであった。

 すっかりと夜になった。

 点灯された庭園を超えて、枕流亭と露山堂を通りすぎる。かつては薩長連合の密議が交わされる建物がいかにちっぽけなシルエットをしている。思い馳せれば高杉晋作は偉業をなし27で辞世、そういう短くて激動の人生に少なからずにあこがれを持つのである。やはり人生は終わりがあってからこそ美の余韻を帯びる。終わりなき生、または終わりを認識しえぬ生は凡庸そのものでありもっとも恐ろしく憎たらしいものである。

 夜、ホテルのシャワー故障。仕方なく自室でシャワーを浴びる。

 次の日10時出発。萩目指そうが疲れる。萩往還手前で引き返す。ダムが青色を湛えながら遠いところの山に鉄橋が木々の枝の間に見え隠れしている。釣りに来たおっちゃんが気だるそうに車に寝ころび、足をフロントガラスに押し付けながら。ダムの上にかかる2メートルほどの鉄橋から、山に囲まれる山口の町が見える。

 大内氏遺跡を訪れる。日差し強く資料館も特に面白からず。

 十朋亭維新館を訪れる。敬親公が湯治と称し山口移鎮した際に泊まった宿という。特に面白みなし。

 雪舟庭まではトンネルを一つ越えなければならぬ。幸い歩道ひろく通りやすし。途中で護国神社通りかかり、立派な建物であった。雪舟は室町時代大内氏お抱えの絵師らしい。珍しく畳部屋の本堂に上がることができる。庭はあまり好まぬ。

 夜6時新幹線で帰阪。家に着くのは9時過ぎである。

日本縦断の旅(0)

2026年3月1日から2026年4月2日にかけて、鹿児島の佐多岬から北海道の宗谷岬まで、ロードバイクで日本縦断をしました。

日本縦断のルート

 やっとのこと大阪の自宅に戻りましたので、記憶が新鮮なうちに書き下ろしたいともいます。

 

 ルートとしては、大阪からさんふらわ志布志まで志布志港までフェリーで行き、佐多岬を目指します。

 九州の西岸、広島まで2号線、尾道からしまなみ海道を渡り、四国島を縦断し、徳島から和歌山までフェリーに行き、大阪まで行きます。

 その後大阪から伊勢本街道で御杖を経由して伊勢へ、フェリーで伊良湖にわたり、1号線、4号線を経て青森につき、津軽海峡フェリーで北海道に渡り5号線、石狩平野、オロロンラインを通り稚内の宗谷岬まで行きました。

 

 3月敢行なので日本海側の積雪のリスクを避けるため、距離としては3400キロほど(フェリーを入れたら3600キロちょっと)、獲得標高26,000メートルになります。夏のあたたかい期間でやれば、本州を日本海側で走ることで走行距離をもっと縮めることができるかもしれません。

 

 少しだけ自己紹介します。

 大阪在住で、20代、デブでした(今もですけど)。

 出発当時の体重は106キログラムでした。それでも国道の峠一回も足をついていません。ロードバイクがどれほど効率のいい乗り物なのかがわかります。

 旅完遂後の体重は最後に書きますのでお楽しみにです。(( ´∀` ))

 

 使っている機材は、「KhodaaBloom Farna 105」のリムブレーキモデルです。

わが愛車(場所は佐多岬)

 予算は32万円ほどです。(宿泊費・食費・フェリーなどの交通費)

 結果としてはほとんど使い切っています。

 一番多く使っているのはやはり宿泊費と食費です。

 寒いので宿泊はホテルかゲストハウスにしています。基本一日5000円以下に抑えること目指していました。本州までは、「快活クラブ」も結構使いやすかったです。

 もちろん温泉ホテルなども結構行ってましたので、かなりの予算オーバーでした。

 途中でトラブルで日程が乱れることが心配なので、基本その日の昼にホテル予約をしています。

 まあ、本州まではそれでよかったんですが、北海道に上陸してからは結構そのやり方が問題を起こしますけどね。

 

稚内温泉ホテル
温泉はかなり良かったけど
浴衣の着方がわからんwww

 食事は基本1日2食(朝と晩)と補給食です。

 食費節約のため、名物料理を食べる以外基本松屋かやよい軒などごはんが無料でお代わりできるところにしています。

 

北海道長万部駅前の「大昌園」で食べたジンギスカン
温泉行ってから食べ物探してたらほとんどの店が閉まっていて
この一軒だけがやっていました。
ごはんお代わり無料です。

 補給食はパンにしてます。

 コンビニかスーパーで購入したパンを握りつぶして、サドルバッグに入れています。

 1時間コッペパン1つか、あんぱん2つにしています。

 

 これから、1日ずつの旅を書いていきたいと思います。

 

 

 

 

「日曜日は絵の色」

今日は日曜日。

日曜日といえば自由なイメージがあるが、実際にその通りである。やりたいことを好き放題やれる、そんな楽しい一日なのだ。

ここで「ですけど」を入れたい衝動をこらえながら、そうだ、今日は楽しかったなといいたい。もちろん朝はしばらく昨日の悪夢に悩まされたけど、昼過ぎになればもう楽しいモード全開と言っても過言ではない。日差しもよく周りがキラキラしている。その勢いでロードバイクに乗って大和川に沿って走ってみたけれど、やっぱり素晴らしい景色が見えて、感激のあまり思わず呼吸することを忘れてしまったぐらいだった(もちろんそれはただの言葉の綾であり別に息止めたわけではないが)。

大和川を遡って奈良方面に向けて走ると、ちょうど太陽が後ろに鎮座していて、午後の日差しを惜しみなくこの麗しき世界に向けて射ってくる。それを防ぐように綺麗な雲が空に漂い、想像を誘うかのようにいろんな形を成している。もちろん私はロードバイクを漕いでいるので、ベタな絵本の主人公のように雲の形をいろんなものに例える暇はなかったけど、そのままバイクを降りて、生い茂った夏の叢に横たわり、童話みたいな夢をするのも悪い話でもないなと思った。

右側に名の知らないサイクリストの集団が通り過ぎ、日差しが彼らのサングラスの上で踊りだす。そして通り風が言葉では表せない別れを告げる。サイクリングロードを使う人はそれなり多いが、自然の豊かさゆえにまるで窮屈さを感じない自分がいる。実に気持ちのいいライドだとこころの底から思う。

特に踏切で待っているとき、ふわふわとした白い雲が重ね重ね道標の上に乗っかり、気持ちのいい遅めの昼寝をしている。踏切の赤いライトが点滅し、そのすぐ近くに灰色の鳩が隊列を組んで飛んでいく。まるでアニメのワンシーンのようで、その実存性の不確かさをほのめかしつつ、列車が轟轟とした音を立てて鉄橋につたって巨大な青虫かのように這い寄り、風を煽ぎながら目の前を通りすぎていく。思わず「夏だな」とつぶやく自分がエモいなって、思ってしまう。

そして一番怖かった瞬間は、踏切を通った10分も待たないところに到来する。なんと、鳩たちが午後の生暖かさに酔って、我が家のベッドに寝ているかのように道の真ん中に縮こまっていた。一見頗るかわいいものではあるが、それに気づいたのが遅かったせいか、「やべぇ轢いちゃう」と思ってブレーキを勢いで握った矢先、ゆらゆらと羽ばたき、散漫した気持ちで泡のように浮き上がる鳩の姿が目の前をよぎる。それも尚絵になる。

サイクリングして、お腹が減ったのでサイゼに行って、ワインを嗜みながら豪遊した。楽しかったなって思って帰路についた。

ああ、この愉快な気分が永久に続ければどれぐらいいいのだろうと思う。しかし宴はもうお開き、明日も仕事に行かなければならない。それに慣れてしまった自分に少々失望した気持ちを抱きながら、この文を書いて寝ようと、自分にささやく今この頃。まぁ、ユーチューブみるから多分寝ないだろうけどね。

「愚痴」

毎日書こうと思っていたがやはり成し遂げていなかった。なんてこと言いたいところだけれど、実際に何も罪悪感を抱いていない自分がいる。何せこのブログは心が乱れるときに、揺れ動く感情と思惟を整理するためのものであるから、それを書かなくても済むというのは、むしろ良きことだ。

感情というのは、どれぐらい外部からの影響を受けるのだろう。悲しい歌を聞いたときに、悲痛なる感情が心の底から沸きおこり、やがて一層死んでしまおうと思ったり、可愛い猫の動画を見たら、ああ楽しいなと笑ったり、感情というのは、やはり外部から受ける影響が大きいだろう。しかし、自分の場合は受けすぎのではないかと勝手に心配してしまうのだ。だって、悲しい歌を聞いただけで、常識から判断すると死にたいという思いにはさすがに至ることはないし、そこで楽しい動画を見たらすぐハッピーになるのも不自然だ。

原因を探りたいけど、根拠のない推測になってしまうことを自覚の上で、私はやはり自分の感情のオリジナリティに疑問を呈する。もし感情がすべて外部から借り受けたものだとすれば、そのような揺れにも解釈が付くのだろう。

そして、借り受けたのは感情だけではないような気がする。もしかしたら人格までが借りてきたものかもしれないと時々思う。それは怖い話だ。だって、自分が何であるかを決めるのは自分ではなく、周りの環境になってしまうのだから。でも、これまでの経験からみると、関係の近い人ができてしまうと、その人の性格や特性に自分が近づいて行ってしまうのだ。おかしな話だけれど、本当なのだ。そしてすごく気持ち悪い。

私は誰なのか。わからない。25にもなってもいまだにわからない。そもそも人とかかわるのは好きではない。でも触れてしまうと離れられない。めんどくさい、めんどくさい、嗚呼。長い付き合いはこれまで一度もできていない。毎回同じ結末。最初は謹んで人に媚びて、次に隙を突いて相手に逼る。そして自爆して嫌われて逃げていく。毎回そうだ。外れは一回もない。

そして自爆するごとに脳内にトラウマが残る。急に起こる発作なのだ。急にその瞬間が脳裏をよぎり、うずくまって泣いてしまうのだ。そんなことは絶対いやだ。引きずるなんて気持ち悪いし、そもそもする資格もない。たとえ自分の頭の中の妄想だけでも、そういうことをする資格も権利もないのだ。馬鹿な話だ。

2年前そういうことが起こった後、絶対人なんかに近づかないと決めた。絶対一線を踏まない。絶対中立的な立場を保つ。そうしなければいずれまた人を傷つけてそして自爆するから。しかしなんでそんなに寂しいのだろう。そんな都合のいいことを思ってしまう自分も気持ち悪くてしょうがない。そもそもこの文を書くのも私の演技かもしれない。ああわからない、わからない。わからないのよ。

でも文書は書かねばならない。話す相手もない言葉が気持ちに淀むといいことはない。それでいいのだ。これを読んで気持悪くなる人には悪いのだけれど。

「糸につながれしパペティア」

文書を書くことは、自己療養へのささやかな試みであると春樹はいう。いつもの私であればそれに対し過激な反論を展開しようとするところではあるが、究極なハルキストと自負しているのであえてその通りにしてみよう。一日一文書いてみたいと思う。

 

2024/07/24

「糸につながれしパペティア」

自分が屑であると思ったことがある。なぜなら、他人の幸せや不幸せに真に同情し、行動を起こしたがないからである。もちろん、薄っぺらい労いの言葉を口にし、媚を売るような表情で他人を慰めるためのプレゼントを渡すことぐらいは平常運転である。しかしそれは単なる表であり、演技である。

そこで疑問となるのは、表が必ず演技であり、裏が必ず真なる感情と信ずることは可能であるかどうかである。その答えに自分は「否」と答えよう。いや、そう答えざるを得ないのである。なぜなら、真なる感情も尚、人間の脳の働きにより生み出されしものであり、いわゆる人工なるもの、アーティファクトに他ならないのである。我々の感情は、周囲の状況の推移に伴い変化しつつ、それに適応することで進化の圧力に耐え続け、やがて我々の遺伝子にその爪痕を残すのである。

万人そうであろうという科学的な証明は存在しない。しかし私の体験からすれば、アーティフィシャルな演技と心の底にうずめく感情を分けて考えることはできず、否、むしろ両者が同じものの裏表にしか思えない。周りの環境に沿って、利己的なガイドラインに従い感情を奮い立たせ、社会に適応しようとする。

つまるところ、もし真なる感情と演技が真逆な物だとすれば、私には真なる感情を体験したことが一度もないといえよう。もちろん、深い悲しみ、心の揺らぎ、迫真たる恐怖、骨髄にしみる喜びを味わったことはある。しかしその感情の数々のうち、どれが演技によるものでないかといわれると、言葉に詰まる。真なる感情であるかどうかを確かめる手段は私にはないのである。感情は環境によって生まれ、そして環境の変化に伴い消え去る。そんなものなのである。

しかし、他人がそれと相反する答えを出すかもしれないという感情に襲われると、むなしくていたたまれなくなるのである。なぜなら、私だけが「真なる感情」を知らないことになってしまうのだ。そのどす黒い嫉妬にも似た気持ちは、幾度もなく私のこころを揺すぶっては消え、消えてはまだ執拗にその帰還を宣告する。

今でも、その嫉妬は私の心の中で蠢き続ける。しかし、それも尚不確かなのである。今この時、この瞬間パソコンの前に座ってこの文章を書いている自分自身の感情は、ただこの文を読んでいただける読者様に喜んでもらいたく、驚いてもらいたく、そして慰めの言葉をかけてもらいたくて作られた演技かもしれない。そう思うと、苦痛を体感し、それを苦悩と表現しようとする。しかしそれも尚作りものである可能性がある。否、それは作り物と言わざるを得ない。私には真なる感情を体験することができないし、たとえ体験したとしてもそれをただの演技だと嘲笑うのであろう。頭がうずく。そのような考え方は気持ちのいいものではないが、そこにあるものを述べているだけなのだと言いたいところではあるが、それもまた偽りの嘘かもしれない。ペテン師に騙されるよりも気持ち悪いのは、己自身がペテン師という紛れもない事実である。

 

 

オレンジ風(1)

「サヨナラの始まりはいつもオレンジの香りがする」

灰色に染めた歩道橋の上で明理はそう思った。アスファルトの凸凹に雨水がたまり、無気力の瞳のように周りの光を吸い込んだまま黙り込む。3月の風は未だに肌寒く、街路樹の裸のままの枝を躍らせてから、明理の右耳をくすぐりながらも通り抜け、灰色の国道を辿りながら遠方の名の知らない町へと消えていった。

明理は塗装が所々剝がれている歩道橋の金属手すりにもたれかかり、風の行く末を追うかのように地平線の方向へ目線を向けている。うなじを隠している長い黒色の髪が靡き、道端に踊っている雑草のように見える。明理が身に着けている水色のワンピースが、皮肉にも水のせいで灰色に染まった空と引き合いに輝いているように見える。

歩道橋の下にはいつもと変わらない忙しい風景が繰り広げられている。いや、むしろ雨による渋滞のせいで交通量が多く感じられる。路面が自動車の黒い車体に一面を占められて、その列が目の見える限り続いている。まるで黒い血液のように自動車の行列は国道を走る。しかし風の音はしない。それほどの速さで交通は動いてない。雨のせいで渋滞気味なのだ。

その代わり交通音が鳴り響く。死にかけたエンジンの鳴ったり止まったりする呼吸音、タイヤが水だまりを通る時の噴射音、時々車内から流れてくるロックンロール。雨のせいで全てが乱れていていつもの規則性を失っている。

明理に目をやる人間は誰一人いない。何せ朝の8時30分、いわゆる通勤ラッシュの時間帯なのだ。雨でタイヤが滑りやすくなっているせいで人々は一層路面の状況に注意を払うようになり、灰色の空を背景に佇む明理の姿を気にするほうが異常とでもいえよう。

冷たい風が明理の額をくすぐる。それで母親の俯く面影が明理の脳裏を掠る。まだ30代の若かった母親の顔だ。「早く目を閉じなさい」と母親が言う。明理は名残惜しそうに眼を閉じ、自分の瞼という名の暗闇を凝視するようになる。そして母親の冷たい指はゆっくりと優しく明理の額を擦る。

明理は昔から目が悪かった。医者さんに診てもらったことがないので、多分本を読みすぎたせいだろうと明理自身が勝手に思っている。子供の時の明理はとにかく本が好きだった。理由はたぶん友達がいないことだと明理は思っているが、どれが起因でどれが結果なのか明理自身もわからない。本はとにかく都合のいい友人のようなものだった。好きな時だけこっちから話しかけることができるのに加え、邪魔になることはない。

明理は同年代の友人のかわりに、本を選んだ。その代償といえばなんだが、目が悪くなった。小学校6年生から眼鏡をかけるようになり、大学に入ってコンタクトに変えるまで、黒いフレームの眼鏡はずっと明理の鼻の上を鎮座していた。そのせいでいろいろと同級生に揶揄われたこともあったが、それを気にするような明理ではなかった。

眼鏡だけではない。目が悪いのは、目が疲れやすいことをも意味する。それで、経脈医学にはまっていた母親がよく、明理の頭を膝に乗せ、そのゴリゴリとした太い指で明理の額の皮膚をこすり、効きそうなツボを探してマッサージをしていた。明理の肩までの黒い髪が母親の膝にかかり、まるで膝掛のようだった。

明理の母親は自動車工場の女工で、いつも汚れた深い青色の作業服を着ている。朝7時に家を出て、夜9時に帰る。小学生の明理は午後5時に学校から自宅に帰り、小説を読みながら朝母親が作った弁当を温めて食べ、宿題をして寝る。週末だけ母親が夕食を作ってくれて、同じく青色の作業服を着こむ父親と一緒に静かに食べる。そして父と母がテレビを見ている間明理は目が痛くなるまで本を読むのだった。

雨のにおいが充満する風が再び通り過ぎ、明理の墨のように光る黒髪をいじりながらまた靡かせた。明里が手すりを強く握りしめながら、俯き、歩道橋の真下の国道を注目する。水だまりは、曇天空を反射して灰色一面で、なにも映ってないように見える。明理の存在に気付く人間は、いまだに誰一人もいない。

明理は気づかずに灰色の水だまりを見つめるようになった。まるで瞳のグレイと水だまりの色が共鳴し、溶け合ったかのように。その水だまりはちょうど歩道橋の真下で、明理の真下なのだ。渋滞で自動車の流れが堰き止められ、時々クラクションの甲高い音が鼓膜を痛める。その濁ったように見える水の中に、鮮やかなオレンジの皮が静かに漂っている。先通り過ぎたマナーの悪いドライバーが捨てたものだろう。オレンジジュースが朝食のトレンドになっているせいかもしれない。

そのような距離でわかるはずもないのに、明理はオレンジの酸っぱい香りを微かに感じる。今日の風は少し意地が悪いと、明理は思う。なぜならそれは、レイとの再会の時に彼女が身にまとった香水の匂いと似ているからなのだ。しかし考えれば、実体のないレイが香水を身につけれるはずもない。でもそれぐらいの矛盾は許されるだろう。そもそもレイ自身も曖昧そのものなのだ。本当に「レイ」という名前だったのかすらわからない。しかし物事には名前がないと始まらないので、彼女のことを明理はレイとずっと呼んでいた。

しかしそんなことはどうでもいいのだ。記憶に怯えるほど弱い明理ではない。灰色の水だまりを見つめたまま明理は右足で手すりを跨いだ。ゴキブリのような自動車にこもっている人々が彼女に気づくことはやはりなかった。ただエンジンのついたり消えたりする音が辺りに響く。風が愛撫しているように彼女の右耳をいじりながら通り過ぎた。オレンジの匂いがだんだん濃くなる。

そして気づいたら明里はレイの顔を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

英語で名著を読もう(1)Wuthering Height

 

 

 

1 はじめに

「英語勉強には教科書だけでは足りない」

「なかなか英語に対する興味が沸かない」

「知っている言葉の数が少ない」

という方にはやはり英語の名著を読むことをお勧めします。語彙量を増やそうとも、教科書だけでしたら絶対に足りませんし、新聞などは物語性がなく楽しくありません。しかし名著を読むと、変化に富んだ物語に魅了され、知らず知らずに多種多様な表現に触れることができます。しかも名著のほとんどは著作権が切れていますので、金かからずに勉強することができます。つまり、英語の名著の原文を直接読むことは、英語の読解力向上への近道とでもいえます。筆者は中学生の頃から英語の名著に惹かれ、高校生になった頃にはトーフルの読解の満点を獲得することができました。それも多分名著のおかげでしょう。

 

このブログで、筆者個人が好きな英語名著を抜粋し、単語表・理解問題を付し、皆さんの読解学習に役立つことを目指しています。ここに載せた文章は短い切り抜きですので、本気で読解力を上げたい方には、小説自体も併せて読むことをお勧めします。今回扱う「Wuthering Height」の全文は、「Wuthering Height pdf」という検索していただければダウンロードできます。

2「Wuthering Height」

「Wuthering Height」は日本語で「嵐が丘」と訳されています。エミリー・ブロンテが作者の悲恋小説です。ヒースクリフからThrushcross Grangeを借りて住む青年ロックウッドの視点から、ヒースクリフとキャサリンとの悲恋・復讐の物語を語ります。「世界の三大悲劇」・「世界の十大小説」と高く評価されています。

 

中学生の時この小説を初めて読んだんですが、それはなかなかな衝撃でした。日本文学で例えるなら、太宰治の「人間失格」を読んでいる時と似たような感情に襲われました。しかし「Wuthering Height」には「人間失格」にはない時代感があり、その点においてはむしろ「斜陽」を思い起させます。

今回抜粋した内容は、小説の最初のところでロックウッドが初めてヒースクリフに会うシーンです。

 

3 本文

「I have just returned from a visit to my landlord - the solitary neighbour that I shall be troubled with. This is certainly a beautiful country! In all England, I do not believe that I could have fixed on a situation so completely removed from the stir of society. A perfect misanthropist's heaven: and Mr. Heathcliff and I are such a suitable pair to divide the desolation between us. A capital fellow! He little imagined how my heart warmed towards him when I beheld his black eyes withdraw so suspiciously under their brows, as I rode up, and when his fingers sheltered themselves, with a jealous resolution, still further in his waistcoat, as I announced my name.

'Mr. Heathcliff?' I said. A nod was the answer. 'Mr. Lockwood, your new tenant, sir. I do myself the honour of calling as soon as possible after my arrival, to express the hope that I have not inconvenienced you by my perseverance in soliciting the occupation of Thrushcross Grange: I heard yesterday you had had some thoughts - ' 'Thrushcross Grange is my own, sir,' he interrupted, wincing. 'I should not allow any one to inconvenience me, if I could hinder it - walk in!' The 'walk in' was uttered with closed teeth, and expressed the sentiment, 'Go to the Deuce:' even the gate over which he leant manifested no sympathising movement to the words; and I think that circumstance determined me to accept the invitation: I felt interested in a man who seemed more exaggeratedly reserved than myself.」

 

4 単語

1 solitary 孤独な adj.

       ラテン語の「solitas」から由来する。日本語でいう「ソロ」と同じ語源を持つ。

 

2 stir かき混ぜる v.

  古英語の「styrian」から由来する。「storm」(嵐)と同じ語源を持つ。

 

3 misanthropist 人間嫌いの人 n.

    ギリシャ語から由来する「miso」(憎く思う)と「anthropos」(人間)と「-ist」(人を表す接尾辞)を合わせてできた言葉。

 

4 divide 分ける v.

  ラテン語の「dis」(離れている)と「videre」(分ける)を合わせた言葉。

 

5 desolation 悲しみ n. 

  ラテン語の「de」(完全に)と「solare」(孤独)から由来する言葉。いわゆる「完全な孤独がとても悲しいよ~」という意味合いがある。

 

6 capital  優れた adj.

  ラテン語の「caput」(頭)から由来する言葉。「capital fellow」はいわゆる「いい男」の意味

 

7 behold 注視する v.

  「be」=「by」は「○○の付近」の意味であり、「hold」は握るの意味。いわゆる手に握るように見るという意味合いであるから「注視する」という意味になる。

 

8 withdraw 引き抜く n.

  「with」(遠くへ)と「draw」(引く)を組み合わせた言葉。

 

9 suspiciously 疑わしげに adv.

       「sub」(下から)と「specere」(見る)に由来する言葉。下からこっそり見るというのは、疑っているということですね。

 

10 waistcoat チョッキ n.

 

11 tenant 賃借人 n.

     フランス語の「tenir」(持つ)の現在分詞。土地をもっているから賃借人の意味合いになった。「lieutenant」(中尉・少尉)も「lieu」(場所)と「tenant」(持っているひと)の組み合わせであるので、「tenant」とは同じ語源を持つ。

 

12 solicit 誘う v.

     フランス語の「soliciter」(誘惑する)に由来する。イギリスで法廷以外で弁護士の仕事をする「solicitor」も同じ語源を持っている。

 

13 Thrushcross Grange Heathcliffの別邸の名前

 

14 wince 顔をしかめる v.

    インド・ヨーロッパ祖語の「weng」(曲げる)に由来する。「wink」(ウインク)と同じ語源を持つ。

 

15 hinder 妨げる v.

    「hind」(後ろの。hind leg of a dog→犬さんの後ろ足)の動詞形である。「妨げる」というのは、「後ろに引っ張る、後ろ脚を引く」という意味合いから来ている。

 

16  utter  話す v.

    「out」から由来する。「話し出す」という意味です。

 

17 manifest 明らかにする v.

        「man」(手、フランス語の「main」と同じ語源)と「fest」(握る)の組み合わせた言葉。物事を手に握るようにわかるという意味から、明らかにという意味になる。

 

18 exaggeratedly  大げさに adv.

   「ex」(○○の外側)と「aggerere」(累積する)から由来する。累積して限界突破したから「大げさ」という意味になる。

 

5 問題

①Heathcliff(ヒースクリフ)はどのような人間に見えますか。

②ロックウッドはどこに住んでいますか。

③ロックウッドはどうして田舎に来ましたか。