光陰矢の如しいというけれどまさにその通りである。
3月に日本縦断を出走し完遂してはや2か月、ブログを書こうと常々思ってはいるものの、依然として筆を動かしていない今頃である。すでに6月に差し掛かり、風は徐々に夏の熱波を思い出させる時期になった。6時過ぎても日が沈まぬ。
4月に別府で1週間の湯治をして大阪に戻ったものの、未だに旅情に陶酔す自分がいる。日常に戻るのが怖いからかもしれぬ。
さて、5月24日の午後である。日が長く空気が煽られ熱い風となって窓ガラスにてエアコンの冷気とぶつかりながら、音のしない悲鳴をあげている。部屋にはものが乱雑に倒れており、さも空き巣にでも入られたかのように。焦燥は空気と同じ厚さを帯びる。もう1週間ほど外に出てないのである。
引きこもりと言われたら心外である。インドア派では決してない自分を何度か確かめながら僕ははっきりという。けれど音楽はインドアでやることが多い。特にこんな空気が熱い日においては。
1週間何していたかというと、ギターとマイクラ、その2つしかしていない。マイクラはもう飽きたけど、音楽は絶えず人を引き付ける魔力を持っているように、1日6時間以上練習とアレンジに費やしても全くと言っていいほど飽きが来ない。けど音楽は金にならん。早く何かをせねばと思いながら、やはり旅に出ねばならんと思った。旅で何か解決策を得ることができるかもしれんという淡い期待をわずかに抱きながら、さも夜逃げするようにその日の午後に山口へ発した。新幹線に乗って輪行状態のロードバイクを傍に。
なぜ山口なのか。それは単なる思いつきである。
日本縦断していた2か月ほど前、山口県を通っていた。国道2号線で小野田、宇部、岩国、防府、周南の順で、1日で駆け抜けました。しかしあまりにも急いでたのである。
その日の午前は門司レトロを見学して、関門突破して本州に渡ったのはもうすでに午後である。それに加え国道2号線が思った以上の大通りであり、車が信じられないほど早いスピードでロードバイクの傍らから抜いて来るので、仕方がなく迂回路を使うも道に迷い、防府あたりにつくのがもうすでに真夜中でなんも見えないのであった。
そのため今回は日本縦断で見れなかった山口を体験しようと思って始まった旅ともいえるかもしれんが、それもそれでこじつけかもしれぬ。
今回は新幹線で新大阪から新山口まで移動したのである。午後である。気温が思った以上に暑苦しく、ホームで汗にびしょ濡れの自分がいる。嫌がりながら輪行状態の自転車と乗車してやっと一息がつけたのである。
新山口から宿泊予定地の湯田温泉まではおよそ10キロほどである。県立博物館におじゃましようと計画を立ててはいたものの閉館時間に間に合わず、なおかつ次の日も閉館日というわけで訪問を断念したのである。
ぬめりのある熱さを横切りながら椹野川の土手に沿って北上し、サングラスに突き刺さる日光にじっと耐えながら10キロ。やっとのこと湯田温泉のスーパーホテルについたのである。時刻は午後4時半ほどである。
荷物をホテルルームに預け、まずは毛利家の墓所のある瑠璃光寺に向かうが、途中でサビエル記念堂の看板を見たので気になり立ち寄ることにした。

サビエル記念堂は営業時間外で空いていなかった。白い西洋風の建物で、どこかさびれている雰囲気に包まれる。地面より一段高い白い土台に年配者の顔のような黄味のかかった白亜の屋根が銀色の十字架を囲んでいて、その後ろにそびえる2柱の塔にスピーカーのワイヤーが張り巡らされ、20世紀の未来映画に出てくるサイバーパンク感をあたりに漂わせる。左手に駐車場と禁門の変で討ち死にになった来島又兵衛をたたえる石碑の向かい側に、まるで観音菩薩のようにたたずむマリア様の彫像が石室に身を隠しながら、記念堂を何重も囲む紅の花と木々を慈愛の視線で眺めている。

記念堂の反対側に亀山山頂への道があり、それに上ると山頂に毛利敬親公の銅像があり、周りに支藩の藩主の銅像もあったが、戦時中に軍需として徴収されたという。

亀山を下って一の坂川を沿って進みながら、まるで京都銀閣寺付近の哲学の道に酷似する風景に驚く。特に川にかけられる橋が京都にいた頃の記憶を呼び戻して来るのである。
坂を登り切れば瑠璃光寺の手前につく。6時過ぎでいたので店は開いておらず、舌鼓と色褪せた看板に書かれた色味のない大字を眺めながら、瑠璃光寺に入っていく。

カエルの鳴き声が聞こえる。そのあたりはモリアオガエルの生息地であるが、どの種類のカエルかを確かめるために音の主を探したが見つからず断念。しばらく進むと五重塔の近くにたどり着く。塔は古びた木でできていて、室町時代の大内氏によって作られたという。何百年も過ぎているのに朽ちて倒れないか心配ではあるが、日が沈むにつれ点灯されすぐ近くの湖に投影し、宛ら鏡湖池のごとく綺麗に塔の蒼然たる姿が映し出される。大内氏が京都の風雅に靡きそれに模して西の京となした所以かと思いにふければあたり一面に暗闇が襲いかかる。寺を見学して鶯張りの石畳を渡って毛利家墓を訪ねる。かすかな黄昏の余光を頼りに墓主人の名前を読みながら、当の関ケ原の恥をすすぎ天下の徳川幕府を倒したそうせい公の最後も一丈もない高さの石の下青藪の中に骨をうずめることを想像し、諸行無常を思い知るのであった。
すっかりと夜になった。

点灯された庭園を超えて、枕流亭と露山堂を通りすぎる。かつては薩長連合の密議が交わされる建物がいかにちっぽけなシルエットをしている。思い馳せれば高杉晋作は偉業をなし27で辞世、そういう短くて激動の人生に少なからずにあこがれを持つのである。やはり人生は終わりがあってからこそ美の余韻を帯びる。終わりなき生、または終わりを認識しえぬ生は凡庸そのものでありもっとも恐ろしく憎たらしいものである。
夜、ホテルのシャワー故障。仕方なく自室でシャワーを浴びる。
次の日10時出発。萩目指そうが疲れる。萩往還手前で引き返す。ダムが青色を湛えながら遠いところの山に鉄橋が木々の枝の間に見え隠れしている。釣りに来たおっちゃんが気だるそうに車に寝ころび、足をフロントガラスに押し付けながら。ダムの上にかかる2メートルほどの鉄橋から、山に囲まれる山口の町が見える。

大内氏遺跡を訪れる。日差し強く資料館も特に面白からず。
十朋亭維新館を訪れる。敬親公が湯治と称し山口移鎮した際に泊まった宿という。特に面白みなし。
雪舟庭まではトンネルを一つ越えなければならぬ。幸い歩道ひろく通りやすし。途中で護国神社通りかかり、立派な建物であった。雪舟は室町時代大内氏お抱えの絵師らしい。珍しく畳部屋の本堂に上がることができる。庭はあまり好まぬ。
夜6時新幹線で帰阪。家に着くのは9時過ぎである。



